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お金は誰のものか ―― 汗をかく人と、ルールを作る人

お金は誰のものか ―― 汗をかく人と、ルールを作る人

一万円札を食べても、腹は膨れない

ひとつ、奇妙な事実から始めたい。

一万円札の原価は、紙とインクで数十円だ。銀行口座に並ぶ数字に至っては、液晶に光るただのドット、電子データに過ぎない。それなのに、この紙きれと光の点が「一万円分の価値」を持つ。なぜか。日本中の全員が「これは一万円分のモノや労働と交換できる」と、百パーセント信じ切っているからだ。それ以上の理由は、ない。

お金はフィクションである。共同幻想と言ってもいい。これは陰謀論でもなんでもなく、現代の歴史学や経済学が重視する、ごくまっとうな視点だ。人類がここまで巨大な社会を築けたのは、目に見えないルールをみんなで同時に信じ込む、という奇妙な能力があったからで、お金はその最たる発明だった。

この性質が一番むき出しになるのが、無人島の例えだ。百億円の詰まったスーツケースを抱えて無人島に漂着しても、その金は一円の役にも立たない。札を食べても腹は膨れず、魚も釣れず、雨もしのげない。そこで本当に価値を持つのは、魚を捕る技術、火を起こす体力、家を建てる知識――つまり「リアルな供給力」だけだ。

お金とは、社会という巨大なコミュニティの中で、この供給力をスムーズに融通し合うために作られた、魔法のチケットに過ぎない。価値の本質はチケットそのものではなく、チケットの先にある「誰かの労働」にある。ここを取り違えると、話の全部がねじれていく。本稿はこの一点――価値の本体は供給力であり、お金はそれを動かすための記号でしかない――を軸に、お金の正体から、それが壊れたときに起こること、そして平時の社会で誰が報われ誰が報われないのかという不公平の構造、最後にその構造を技術で乗り越える可能性まで、一気に辿ってみたい。

「数字を無視すれば回るのでは?」という直感

ここで素朴な疑問が湧く。

ニュースでよく聞く「デフォルト(債務不履行)」。国が借金を返せなくなって経済がパニックに陥る、あれだ。だが冷静に考えると妙な話でもある。人がいて、モノを作る力がそこに現に存在しているなら、数字なんか無視してでも、世の中は回るのではないか。

この直感は、実のところ経済の本質をかなり正確に射抜いている。本当に価値があるのは労働力と供給力であって、お金の数字はそれを交換するための記号に過ぎないのだから、極論、国民全員が「数字は無視して、今まで通り働いて支え合おう」と完全に合意できれば、理論上は社会は回り続ける。

では、なぜ現実のデフォルトでは、立派な供給力がそこにあるのに、社会が止まってしまうのか。答えは、数字が壊れると、供給力どうしをつなぐ「接着剤」が消えるからだ。理由は大きく四つある。

  1. 物々交換の限界。お金が機能するのは、誰もが「この数字を渡せば次に肉や服が買える」と信じているからだ。信用がゼロになれば、誰もその札を受け取らない。パン屋では「金はいらない、ガソリンをくれ」と言われ、ガソリンスタンドでは「小麦粉を持ってこい」と言われる。欲しいものと差し出せるものが噛み合わず、流通そのものが固まる。
  2. 現代のサプライチェーンが複雑すぎること。一斤のパンを焼くだけでも、小麦の輸入、トラックの燃料、工場の電気、包装材と、無数の他人の手が連なっている。決済システムが崩れれば「電気代が払えず工場が止まる」「燃料が買えず運べない」と連鎖し、バラバラの供給力を一つの製品にまとめあげられなくなる。
  3. 海外が売ってくれなくなること。これが致命傷だ。多くの国はエネルギーも食料も原材料も輸入に頼る。破綻した国の通貨は、海外の取引相手から「そんな怪しい数字はいらない、ドルで払え」と突き返される。手元にドルがなければ、供給力を動かす燃料すら入ってこない。人も工場もあるのに、物理的に動かせない。
  4. 未来への約束ができなくなること。経済を回すには「今は金がないが、来月売れたら払う」という信用(クレジット)が要る。数字への信用が消えれば、誰もツケで売ってくれず、明日の仕入れができない。

つまり供給力は車のエンジンで、お金はそれを滑らかに動かすオイルだ。デフォルトとは、エンジンは立派なのにオイルが抜けきって、摩擦でギチギチに固まって動かなくなる状態に近い。ポテンシャルはあるのに、システムの不具合でみんなが身動きを取れなくなる。エンジンを責めても始まらない。問題はいつだってオイルの側、つまり「フィクションの運営」の側にある。

歴史の証明 ―― 数字が壊れても、人は経済を止めない

ここで重要なのは、オイルが抜けても人間はただ飢えて待つわけではない、ということだ。そこに人と供給力がある限り、人々は原始的な物々交換に先祖返りするか、あるいは自分たちだけの非公式なフィクションをその場で立ち上げて、なんとか社会を回し続けようとする。歴史に刻まれた実例が三つある。

アルゼンチン(2001年デフォルト危機)

政府がデフォルトを宣言し、銀行口座は凍結され、街から現金が消えた。そこで市民が始めたのが「クラブ・デ・トゥエケ(物々交換クラブ)」だ。当初はパンと服を直接交換していたが、「パンはいらない、靴下が欲しい」というミスマッチが頻発する。そこで市民たちは「クレディト」という手作りのクーポン券、いわば独自通貨を勝手に発行し始めた。医者が患者を診て五クレディトを受け取り、それで近所の弁当を買い、弁当屋がそれで散髪してもらう。政府の数字を完全に無視し、市民同士の信頼だけで、新しいフィクションをその場で立ち上げたのだ。最盛期には全国に数千のクラブが生まれ、数百万人分の供給力がこの手作り通貨で循環した。

ドイツ・ワイマール共和国(1923年ハイパーインフレ)

札の価値が文字通りゴミになった。朝に百マルクだったパンが、夕方には十億マルク。札は数えるより重さを量る方が早く、子供は札束を積み木にして遊んだ。公式の数字が意味を失った結果、社会は猛烈な勢いで現物経済へと舵を切る。給料は現金ではなく靴やジャガイモや石炭の塊で支払われ、都会の住民はピアノや高級時計や形見のブローチを抱えて農村へ向かい、卵や小麦と交換してもらった。診察代は卵三個、ソーセージ一本。誰も金を信じなくなっても、ジャガイモの栄養と石炭の暖かさという「裏切らないリアルな価値」だけは、そのまま通貨になり得た。

ジンバブエ(2000年代)とベネズエラ(現代)

ここではもう少しスマートなサバイバルが起きた。ひとつは「他国のフィクションの乗っ取り」。自国通貨を全員が無視し、ジャガイモ売りからタクシー運転手まで、誰もが勝手に米ドルや南アフリカランドで商売を始めた。政府が何を言おうと、国民全員が「ドルしか信じない」と合意すれば、それで経済は回る。もうひとつが面白い。携帯電話のプリペイド通話時間を、通貨代わりにしたのだ。通話時間はスマホ間で簡単に送れ、「いつでも通話できる」という実用価値の裏付けもある。だから人々は「そのトマト、通話時間二十分ぶんね」と、デジタルデータを通貨のように使ってモノやサービスを交換し合った。

これらが証明するのは、政府が用意したシステムが壊れても、人間は絶対に交換をやめないということだ。公式の接着剤が溶けても、物々交換をし、勝手にクーポンを刷り、他国の数字を借りてきて、目の前の供給力をなんとか繋ぎ止めようとする。「人と供給力があれば、数字を無視してでも世の中は回せる」というのは、机上の空論ではなく、歴史が何度も証明してきた人間のたくましい真実なのだ。

そして現代では、この「新しいフィクションを自分たちで立ち上げる」動きが、もっと洗練された形で姿を現している。ビットコインをはじめとする暗号資産だ。国家も中央銀行も発行に関与せず、ただ「このルールを信じる」という参加者の合意だけで価値が立ち上がる。原価数十円の紙きれが一万円になるのと、原理はまったく同じだ。違うのは、信じる主体が「一国の国民」から「国境を越えたネット上の合意」に変わった点にある。アルゼンチンの市民が刷ったクレディトの、グローバル・デジタル版と言ってもいい。お金がフィクションだと腹落ちすると、ハイパーインフレで札がゴミになる現象も、暗号資産がなぜ価値を持つのかも、同じ一本の線の上にすんなり並ぶ。

ひとつの盲点 ―― 公務員というパラドックス

ここで、シニカルだが危機のシミュレーションとしては正解の視点を挟みたい。こういう局面で、実は「書類を扱う公務員」が一番使えない、という話だ。

フィクションが崩壊した世界で最も価値があるのは、食べ物を作れる、モノを直せる、病気を治せるといった物理的な供給力だ。一方、役所で書類を処理する、ハンコを押す、法律の整合性をチェックするといった仕事は、国家というフィクションの上に成り立つ「フィクションの上のフィクション」だから、システムが止まった瞬間、物々交換の市場では交換価値を失う。パン屋に「住民票をきれいに発行できますのでパンをください」は通用しない。

実際、通貨崩壊が起きると、公務員を巡って二つの現実が立ち上がる。ひとつは、給料が紙屑になり誰も働かなくなること。役所に人は来なくなり、ゴミ収集は止まり、学校は閉ざされ、行政は麻痺する。もうひとつは、賄賂の横行だ。給料で食えなくなった公務員は、自分に残された唯一の武器――許認可の権限――を切り売りし始める。「ジャガイモかドルをくれたら、この書類を通してやる」。公的機能は腐敗して動かなくなる。

ところが、ここに恐ろしいパラドックスがある。事務職が止まるのはまだいい。だが治安とインフラを守る公務員まで消えると、「供給力によるサバイバル」そのものが成立しなくなる。警察も軍も消えれば、農家が作ったジャガイモは交換される前に武装した悪党に強奪される。市民の物々交換クラブもギャングにみかじめ料をむしられる。水道局員が全員職場を放棄すれば、蛇口から水は出ず、都市は数日で疫病の巣窟になる。

つまり、人々が平和に物々交換をするためにすら、最低限の「暴力の取り締まり」と「インフラの維持」という土台が要る。だからこそ歴史上、破綻しかけた国の政府は、事務職への給料は踏み倒しても、警察・軍隊・インフラ担当だけには、かき集めたドルや差し押さえた食料を優先的に配って引き留める。彼らが機能を失った瞬間、国家というゲームそのものが終了――無政府状態の暴動――に突入するからだ。書類を作る公務員はサバイバルでは無力だが、ルールと命を守る公務員がギリギリでも機能しているからこそ、市民は物々交換という次の手段に移れる。この二面性は、後の議論でもう一度効いてくる。供給力を支える土台と、その上で書類を回すだけの仕事は、同じ「公務員」でも価値の重みがまるで違う、ということだ。

平時に跳ね返る問い ―― 汗をかく人と、汗をかかない人

ここまでは危機の話だった。だがこの視点は、何事もない平時の社会にこそ、鋭く跳ね返ってくる。

落ち着いて見渡すと、奇妙な光景が広がっている。朝から晩まで汗を流し、リアルな供給力を現に支えている人ほど報われず、その上澄みをすくう側に富が吸い上げられていく。何もモノを生まない人が、寝ていても贅沢ができる。一方で、社会の土台を物理的に支える人が、真面目に働いても貧しい。この不公平を放置した社会は、間違いなく衰退に向かう。

人類学者デヴィッド・グレーバーが提唱した「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」という概念が、ここに正面から刺さる。彼が指摘したのは、ぞっとするような逆説だった。社会になくてはならないリアルな供給力――ゴミ収集、介護、医療、運送、農業――ほど給料が低く、逆に、なくなっても誰も困らない、あるいは社会に害をまき散らしさえする利権・手続き・金融の仕事ほど高給取りである、という不条理だ。価値の本体である供給力を担う人が薄給で、フィクションを動かすだけの人が厚遇される。これは個々人の能力や努力の問題ではなく、報酬の配り方そのものが倒錯している、構造の問題だ。

「中抜き」という、フィクションによる搾取

この倒錯が日本で一番わかりやすく現れるのが「中抜き」だ。

構造はシンプルである。実際に手を動かす職人、エンジニア、現場労働者――つまり供給力の本体――の手前に、いくつもの中間業者が居並ぶ。彼らは書類を右から左へ流し、手続きを管理し、案件を又貸しするだけで、利益の相当部分をかすめ取っていく。現場に届く頃には、報酬は何枚も剥がされて薄くなっている。これはまさに、フィクション側の人間がリアルな供給力から富を吸い上げるシステムだ。

中抜きが厄介なのは、それが「複雑さ」を養分にして太る点にある。手続きが複雑であればあるほど、それを「管理する」という名目の仕事が生まれ、中間に座る口実ができる。だから利権の側には、物事をわざと複雑なままにしておく強い動機が働く。簡単になっては困るのだ。補助金の申請を煩雑にし、規制の解釈を入り組ませ、「専門家でないと通せない」状態を維持することそのものが、彼らの飯のタネになる。供給力を増やす方向ではなく、供給力と消費者の間に立ちはだかる関所を増やす方向に、知恵と労力が注がれていく。社会全体としては、これほど不毛な頭脳の使い方もない。

そして、この関所ビジネスで吸い上げられた富は、供給力を生まない場所に滞留する。現場のモチベーションは下がり、若く有能な人間ほど「真面目に作る側」より「うまく中間に座る側」を目指すようになる。供給力の担い手が痩せ細り、関所の番人が肥える。産業が内側から衰退していくのは、当然の帰結だ。

フェアさが消えると、人が社会から降りていく

少子化も、地方の衰退も、根を辿ればこの「フェアさの喪失」に行き着く。

真面目に働いても、結婚して子を育てる余裕がない。その一方で、親の資産、制度の穴を突いた投資、既得権益を持つ人は、たいして汗もかかずに豊かに暮らす。このゲームのルールを「無理ゲーだ」と見抜いた若い世代が、労働や結婚という「社会維持に必要なコミット」から静かに降りていく。あるいは、より公平な報酬が得られる海外へ流出していく。これは個人の根性や意欲の問題ではない。配り方が壊れた盤面に対する、合理的な反応なのだ。

汗をかく人が報われず、ルールを作る側・資本を転がす側だけが潤う。この一点こそが、増税や金融緩和といった「数字の帳尻合わせ」ばかりに終始する今の政治が、最も見落としている病巣だと言っていい。問題はモノが足りないことではない。配り方が、フェアでないことだ。

ここで、税の話をしておかなければならない

不公平の構造をここまで見てくると、どうしても避けて通れない誤解がひとつある。「税は財源である」という思い込みだ。

直感的には、こう考えてしまう。国が集めた税金というお金のプールがあって、そこから道路を作り、年金を払い、公務員に給料を出す。だから財布(税収)が足りなければ、サービスを削るか、増税するしかない――と。家計の発想をそのまま国に当てはめた、この素朴なモデルが、議論のほとんどを支配している。

だが、本稿でずっと見てきた「お金はフィクション、価値の本体は供給力」という視点に立つと、この絵は逆さまに見えてくる。

国にとっての本当の財源は、税収という数字ではない。その国が現に持っている供給力――働ける人、動く工場、実る田畑、回る電力、走る物流、診られる病院――そのものだ。前半で見た通り、数字をいくら積み上げても、供給力がなければ無人島の百億円と同じで、何も生まれない。逆に供給力さえ十分にあれば、それを動かすための数字(通貨)は、本来かなり柔軟に用意できる。エンジンが本体で、オイルは後からでも足せる。順番が逆なのだ。

では税は何のためにあるのか。再分配と、平等のためにある。

汗をかく供給力の担い手から、汗をかかずに富を吸い上げる側へと、放っておけば際限なく偏っていく。市場をそのまま走らせれば、中抜きの関所は太り、既得権益は雪だるま式に膨らみ、富は供給力を生まない場所に滞留していく。その偏りを掴み取り、本当に支えるべき場所――現場の労働、土台のインフラ、次の世代――へと配り直す。それが税の役割だ。税は国が金を「集めて使う」ための徴収ではなく、社会の中で偏った富を「冷まし、ならし、回し直す」ための装置だと捉えた方が、ずっと実態に近い。

この視点に立つと、議論の風景が一変する。「財源がないから現場の賃金を上げられない」というよくある言い訳は、半分まやかしだとわかる。問うべきはまず「供給力(人とモノ)は足りているか」であり、足りているなら、次に問うべきは「数字の配り方が、供給力を生む側に向いているか、それとも吸い上げる側に向いているか」だ。多くの場合、足りないのは供給力ではなく、フェアな配り方の方なのだ。

だからこそ、再分配の刃は、まず利権の関所に向けられるべきだ。手続きを複雑にして補助金をむしり取る利権ビジネスを徹底的に潰す。そこで浮いた富とエネルギーを、介護・保育・農業・物流・医療といった、社会の土台を支える実務へ回す。これらの仕事の報酬を、国主導で大企業の事務職以上にまで引き上げる。汗をかくことが、フィクションを転がすことより高く評価される盤面を、意図的に作り出す。そうして初めて、人は汗を流して働くことに誇りを取り戻し、経済は内側から回り始める。

そして本題 ―― 供給力を爆発させる二つの新しい労働力

ここまでは、限られた供給力を「どう公平に配り直すか」という話だった。再分配は重要だ。だが、配り方を直すだけでは、しょせんは同じパイの取り合いに留まる。本当の希望は、パイそのものを桁違いに大きくできる可能性の側にある。そして日本は、まさにその切り札を二つ握っている。ロボティクスと、AIだ。

ここまでの議論を一本の補助線として引いてみる。価値の本体は供給力であり、お金はそれを動かす記号に過ぎない。そして社会の不公平の多くは、「汗をかいて供給力を生む人」が薄遇され、「ルールを作り中間に座る人」が厚遇される、という倒錯から生まれている。

ならば問いはこうなる。もし、汗をかく労働の相当部分を、文句も言わず疲れも知らない新しい担い手が引き受けてくれたら、何が起きるか。

ロボティクスは、物理的な供給力の担い手だ。介護の現場で人を持ち上げ、農地で種をまき作物を収穫し、物流倉庫で荷を運び、被災地で瓦礫を片づける。これまで人間の腰と体力をすり減らして支えてきた「リアルな供給力」の土台を、機械が肩代わりしていく。日本は世界有数のロボティクス技術を持ち、しかも世界最速で高齢化が進むという「課題の最前線」に立っている。これは弱みではなく、裏返せば、最も切実にロボットを必要とし、最も早く社会実装できる立場にいるということだ。

AIは、知的な供給力の担い手だ。ここで思い出してほしいのが、前半で見た「フィクションの上のフィクション」――書類を処理し、手続きを管理し、整合性をチェックするだけの仕事だ。中抜きの関所を支えていたのも、煩雑な手続きを「管理する」という名目の事務作業だった。AIが最も得意とするのは、まさにこの領域である。複雑な手続きを瞬時に処理し、申請を自動化し、関所が太る養分だった「複雑さ」そのものを、片端から溶かしていく。フィクションを回すだけの仕事のコストが限りなくゼロに近づけば、そこに人と富を貼り付けておく理由は消える。

二つを重ねると、ひとつの展望が見えてくる。ロボティクスが物理的な供給力を爆発的に増やし、AIが「供給力を生まない手続き仕事」を蒸発させる。社会全体の供給力(本体)は膨らみ、フィクションを転がすだけの仕事(虚)は縮む。これは、本稿で見てきた不公平の構造を、根っこから引っくり返す力を持っている。

ただし、技術は天国にも地獄にも通じている

ここで、前半の「公務員のパラドックス」をもう一度思い出してほしい。供給力さえあれば平和に回るわけではなかった。誰かが治安と土台を守らなければ、増えた供給力はそのまま強い者に強奪されるだけだった。技術も、まったく同じ構造を持っている。

ロボットとAIが供給力を爆発させたとき、その果実が「フィクションを動かす側」――技術を所有する一握りの資本に独占されれば、それは史上最悪のディストピアになる。汗をかいていた人々は仕事を奪われ、しかし増えた富は彼らには一滴も垂れてこない。中抜きの関所が、今度は「アルゴリズムを所有する者」という、もっと強固で見えにくい形で再建されるだけだ。供給力は天井知らずに増えるのに、大多数は貧しくなる。技術が進歩するほど不公平が極まる、という最悪の逆説が起こり得る。

だからこそ、ここで税の話が、決定的な意味を持って戻ってくる。

ロボティクスとAIが生み出した莫大な供給力は、放っておけば必ず所有者の側に偏る。その偏りを掴み、本来の財源――社会全体の供給力――から生まれた果実として、すべての人へ配り直す。それが、技術の時代における税と再分配の役割だ。機械が稼いだ供給力の一部を社会全体で受け取り、人々の生活の土台を支える。働かなければ飢えるという脅しから人間を解き放ち、それでもなお何かを生み出したい人が、誇りを持って汗をかける場所を残す。

これが実現したとき、はじめて「ユートピア」という言葉が地に足をつける。お金というフィクションに振り回されて働くのではなく、ロボットとAIが膨らませた本物の供給力の上で、人間は「生きるための労働」から解放される。介護も、保育も、農業も、物流も、誰かが体を壊しながら担う「割に合わない仕事」ではなくなる。汗をかく仕事は機械と分かち合い、人間は、人間にしかできないこと――誰かを思いやること、新しいものを創ること、意味を問うこと――に時間を注げるようになる。

結論 ―― 配り方を直し、パイを増やし、もう一度配り直す

長く辿ってきたが、芯は一本だ。

価値の本体は、いつだって供給力――汗をかいてモノを作り、人を支える力――の側にある。お金は、それを動かすための記号でありフィクションに過ぎない。にもかかわらず、私たちの社会は、フィクションを転がす側を厚遇し、供給力を生む側を薄遇するという、根本的な倒錯を抱え込んでいる。

ここから抜け出す道筋は、三段ある。まず、税を「財源」ではなく「再分配と平等のための装置」として捉え直し、利権の関所に偏った富を、汗をかく現場へと配り直すこと。次に、ロボティクスとAIで供給力(パイ)そのものを桁違いに増やし、人間を「生きるための労働」から解き放つこと。そして最後に、その爆発的に増えた果実が再び一握りに独占されないよう、もう一度、社会全体へ配り直すこと。

配り方を直し、パイを増やし、もう一度配り直す。順番を間違えなければ、技術はディストピアではなくユートピアへの扉になる。

無人島の百億円は、今日も一円の価値もない。本当に価値があるのは、魚を捕る手と、火を起こす体と、誰かを支える意志だ。その当たり前の真実を社会の設計図の中心に据え直せるかどうかに、この国の未来はかかっている。